自主制作映画

 何故なら、彼は何であっても、「物事のお終い」が大好きであったからだ。即ちそこにある、何処か遠方へ出発する前夜のような、それとも取片付けを終えて何かを待つばかりになったとでも云うような、静かな一刻に憧れていたからだ。

 稲垣足穂弥勒

 

 「自主制作映画」という言葉が私に思い起こさせるのは、極めて純度の高い青春である。私は音楽に青春を捧げ、ある程度は美しい思い出なので後悔はないのだが、映像制作に捧ぐ青春には、存在し得た世界、選択しなかった道として憧れを持っている。これが、「映画製作」であれば話は変わってくる。現在の映画業界の不況や、才能が枯渇してしまった監督の葛藤などの苦しい物まで想像してしまう。あくまで「自主」制作映画だから良いのである。

 

 映画を作ろうと思い立ったきっかけに関しては割愛するが、何人かの先輩には感謝している。「弱いつながり」が大きなきっかけになるという東浩紀とマーク・グラノベッターの言う通りである。

 

 もはや、やることがなくなってしまったこの世界で退屈しない唯一の方法が教養だと、らも兄さんも言っている。青き美しき時代を終えたくだらない人生において、暇つぶしの方法以外に何が必要なのだろうか。映画でも撮ってやろうじゃないか。

 

 映画を作ろうと思い立ってからは、インスピレーションが過剰暴走している。何処を歩いていてもカメラワークを考えてしまう。Y字路に宇宙的な何かを感じてしまう。夢でみたものをスケッチしてしまう。悲劇的な喜劇を紡いでしまう。トカゲにぶち切れてしまう。雲が理想的な形になるまで待ってしまう。フランシス・ベーコンの絵画を気に入ってしまう。台本にないアナルセックスを強行してしまう。どんな映像がこの私に撮られるのを待っているのだろうか。

 

 これまでの人生では随分と偉そうなことを言ってきたように思う。スノービッシュなシネフィル的な発言や、無意味なハリウッド批判など、好き勝手言ってきてしまった。映画を撮ったこともないくせに。あの、映像には一言も二言もあるジョージさんはどんな映像を撮るんでしょうかねー。みたいな態度に怯えながらも、作っていきたいと思う。もちろん一人ではできることも限られているので、色んな人に協力を仰ぎながら2年以内には納得のいくものを撮れるようにしたい。

 

 「レーゾン・デートル(存在理由)」というタイトルのシナリオを書き始めたら、パリでの撮影を見越さないといけなかったので「耳の位置は人による」というシナリオを書き始めた。まずは、実現可能な脚本を完成させよう。