時代と個人の軋轢

 最近、小難しく書いていたのですが、気は狂っていたし、カッコツケてもいたと思います。できるだけ、話し言葉に近いような文章でも書いてみたいなと思います。ジダイとコジンのアツレキについてはまたの機会に小難しく書こうかなと。ジェダイスター・ウォーズは見たことない)とゴ・ディン(ベトナムの初代大統領)のアレッキーノ(イタリアのマリオネット)でも良いかもね。

 

 親愛なるSSRさんと「どん底」という洋酒喫茶で話したのは小難しい僕にとっても、コメディアンの僕にも面白かったんですよね。そもそも僕は、一人の時にしか小難しくならないので、誰かと会っている時は基本的にヘラヘラしています。このヘラヘラしている僕は「人を笑わせたい」という明確な目標だけで生きているので、悩むことはほとんどないのです。客観的に面白いかどうかは置いておいて、どうにか工夫して人を笑わせることだけがプログラムされているんだと思います。ゾナハ病患者です。今は一人でこのブログを書いているのですが、なんとか小難しい僕が出てこないようにしています。SSRさんとの会話を一人で反芻すると自動的に小難しくなってしまうぐらい、一般的な20代同士の会話からは遠くかけ離れていたと思うので、今回書かないのですが、その中でも面白く書けそうなことがあったのです。

 

 哲学者は自殺してはいけない。というようなことだったと思います。哲学者ほど自殺しそうな連中もいないと思えるんですが。むしろ哲学者の典型的な最後は自殺でしょ。まぁ、彼の言ったことをどれぐらい伝えれるかわからないんですが、でも、納得したのはね、哲学者は真理に近づくことが目標なんですよね。僕が人を笑わせることが目標なように。それは、ある種の「レーゾン・デートル(存在理由)」とも言えるのかもしれない。哲学者は真理に「到達する」ことが目標なんじゃなくて、真理に近づくことが目標なんやと思うんですよね。あらゆる先行研究を駆使したり、京都の「哲学の道」を行ったり来たりしたり、あらゆる実験と実践と仮説と反証を繰り返さないといけないんですよね。それには、永遠の時間が必要。自分の命の続く限り、近づき続けないといけない。昨日より今日、今日より明日、明日より明後日、真理に一歩でも近づかないといけない。だから、ある哲学者が今日、自殺したとすると、その哲学者が明日には真理に近づけてたかもしれない距離が消失してるんですよね。数学は得意ではないんですが、漸近的に近づくって言っても、Xの値が増える度に傾きは急になっていくけど、Yの値はちょっとは伸びてる、正の関係なんですよ。だから、哲学者は自殺してはいけないってことですよね。

 

 だから、何が言いたいのかって言うとですね、僕は哲学者ではないけども、哲学者的な思考なんですよ。自分の命が続く限り、知らないことを少なくしていきたい。これは無限です。月が落ちてくるのを見てみたいですもん。知らないことさえ知らないものも知りたい。「セブンイレブンのおにぎり工場から各店舗に運ばれるおにぎりトラックに轢かれて死んだ蛾が幼虫やった時にひっついた少年の服のメーカーの社長が行きつけのバーで頼むウイスキーの瓶についた傷」とかも知りたいんですよね。ひつまぶしの4通り目の味とかね。僕は海外も国内も、あまり旅行には行かないんです。場所の移動なんて分かりやすいものに頼りたくない気持ちがある。確かにレイキャビクの空気の冷たさの中にあるスムーズさを僕はまだ知らない。でも、僕は自分の家のガラスを無意味に割った後の後悔も知らないし、そっちの方が知りたい。

 

 この「自己啓発」的な気持ち悪さを無視して恥も知らずに言うと、色々やってみないと自分がわからん。最近、めちゃめちゃ写真を撮る人間になってしまった。遅い。ゲーテがアウトプットは一つに絞らないと、技術の洗練は成し得ないと言っていたのは知ってるんですが、色々やりたい。

 

 

追記1 ジダイとコジンのアツレキ

    ジェダイとゴディンのアレッキーノ

    うまい

 

追記2 SSRさんと話した僕の話ってことをご理解してほしい

 

追記3 真理を卵子、真理に近づく哲学者達を精子、になぞらえた受精の話があるとす

    れば受精が何にあたり、受精卵は、生命は何になるんだろう。