文体どうしようかな。

 ウラジミール・ナボコフ

「殺人犯というものは決まって凝った文体を用いる・・・」

 というロリータの一節がある。では果たして凝った文体を用いるものは、決まって殺人犯なのだろうか。そもそも殺人犯はいつ殺人犯になるのだろう。また、殺人犯は殺人犯でなくなることは可能なのだろうか。将来的に人を殺すことが運命づけられている者を、潜在的に殺人犯と呼ぶべきなのだろうか。優れた文芸評論家は、文体を見るだけで、殺人犯を見抜くことができるのだろうか。

 ブライアン・メイは自作のレッド・スペシャルという自宅の暖炉から削り取った材木を使用した唯一無二のギターと、6ペンス硬貨、トレブルブースターを使い、虹色のトーンを出した。聴く者の心を踊らせるような虹色のトーンだ。おそらく、ブライアン・メイという男が、ストラトキャスターレスポールなど、その他大勢のロックギタリストが使用するような素晴らしい既成品のギターを使っていても、素晴らしいトーンを出していたことだろう。しかし、彼は削り出した。それも自宅の暖炉から。

 彫刻の本質が、作り出したり、産み出したり、創造するといったプロセスにはなく、むしろ「そこにあるものを見つけ出す」という所にあるとすれば、まさに神が与えたギターを彼が見つけたに過ぎない。彼が生まれる以前に、彼に見つけられるのを待っていたギターが、暖炉としてそこに存在していただけである。

 殺人犯が凝った文体を使用するという命題が真であるとすれば、普通の文体を用いる人間が、人を殺し、見事に殺人犯となった瞬間から、凝った文体を使用し始めるのだろうか。メフィスト・フェレスとの契約のような、あるいは呪術的な、殺人を犯した者にしか扱うことの出来ない大きな力が存在するのだろうか。自分の文体が気にいらず、もっと凝った文体を操りたいと願う人間が、殺人を犯せばどうなるのだろう。

 人は殺してはいけない。これは、理屈などはない真理である。殺人を許す法などないだろう。散文を蒸留したければ、殺人犯に委託すればいい・・・