システムと脳の新しい回路

 2019年の始まりと伴にブログを書き始めて、1ヶ月ほど経ったが、当初の目標の1年で100記事というペースからは程遠い。ブログを書くという習慣がなかったため、日常の中の行動として定着しない。理解することと行動を起こすことのギャップを埋めるために、自由意志が存在するのだと信じてブログを今日もまた書き始めよう。

  とりあえず、今このブログは一人を除いて誰にも公開していない。ブログを始めたという事実は何人かの友人には告白してみたものの、反応は必ずしも良くはなかった。友人の一人に「時代と逆行するのはあなたの癖だもんね。」とも言われてしまった。悪い気はしないものの、どうやらブログを書くというのはどこかクールなことではないみたいだ。時代と逆行するのが癖であるというのは、自身としても認識はしている。このデタッチメントの世代の若者の中にあって無視せずに声をあげたいと思うことも多い。自分があの時代に生まれていれば厭世的な芸術志向の運動(スポーツ)好きの学生だったのではないかと妄想する。

 なんていう語り方をしてしまうと、このブログの本質が政治的なにかであったり、若者のアパシーの是正であるように聞こえてしまうかもしれないが、つれづれなるままにひぐらしmacbookに向かいて、よしなしごとを書き綴りたいだけなのである。論理的な文章が書きたいわけでもない。たしかに文章において論理の美しさの存在は認めるものの、抽象画のように美しい文章も存在することを私は知っている。

 

 前置きはいつも長くあるべきだとも思う。急いで結論や要旨を求めすぎてはいけない。腰を据えなければわからない魅力を軽い腰では見抜けない。

 

 夕方のニュースでA市の牡蠣の特集を見かけた。美味そうだ。私は牡蠣には目がないので、A市にいるニュースキャスターを羨ましく思った。美味そうだ。牡蠣が食べたい。今年はまだ牡蠣を食べていない。A市の牡蠣の味を想像し始めた。

 しかし、ニュースを見続けていると、

「このA市の牡蠣、なんと食べるだけではなく、ある利用方法もあるんです。」

 なんだって・・・

 そもそも養殖という言葉に伴うイメージとして、食べるために生を与えられ生かされるという、いわゆるカズオ・イシグロ 私を離さないで ぼくらの ダーリンインザフランキス的な、ある目的のために人為的に産み出された人間の葛藤を連想してしまう。おそらく、人間という存在自体が何かの目的のために神の意思によって創造されたと信じ込み、結局神は死んだと言い、カニバリズム的に自分達のアイデンティティを見失ったという、キリ○ト教的な前提に産み出された作品達である。

 養殖の翁(漁師のおっちゃん)、牡蠣をミキサーにかけペースト状にして、茶色いコロコロとした、動物のエサ的なものに混ぜ始めた。そして、別の養殖所に行き、その牡蠣ペースト入りのエサを水面に撒き始めた。大きな魚がピチピチと跳ねる。実はこの魚サーモンなんです。とキャスター。

 サーモンか。サーモンもとても好きな「食べ物」である。

 しかし、私が思いをはせたのは牡蠣食いサーモンの味ではなく、中学生の時に習った食料不足の問題である。肉牛の養殖を一切やめ、肉牛を育てるために必要な飼料の穀物と水を世界中に分配することができれば、食料不足はこの先100年以上は問題にならない。といった趣旨のものだった。人間が全て食の堪能を忘れ、とうもろこしやじゃがいもを食べ続けるというのはもはやあまり想像できないが、この美味しさの蒸留の輪廻性にゾッとしたのである。A市が牡蠣をエサにしたサーモンをエサにした熊の肉をエサにした牡蠣を売り出す未来。もちろんその牡蠣は新たな何かのエサとなるのだろう。

 この全て輪廻のソトに人間は君臨し続けている。全てを食い、全ての養殖をコントロールしている。私は、動物愛護者でも菜食主義者でもないので、人間に食べられる生物に関しての同情はほとんど感じない。人間は大きな視点で見てみれば、システムを作り出しコントロールすることに長けているのだなと夕方のニュースを見て考えただけである。私も人間なのだから、小さなシステムをコントロールすることぐらいできるだろうと思っている。ブログやラジオのネタを常に探し、吐き出すシステムの構築が必要なのだろう。

 誰か一緒にA市に行ってサーモンを食べましょう。