文体、図形、あるいは記号

 自分の文章が気持ち悪い。醜い。なんて矮小な人間の書く文章なんだろう。と思い始めたらお終いで、二度と書くのをやめてやろうと思う。書く内容も書き方も恐ろしく汚い。文章でさえそう思ってしまうので、自分が生きている意味さえもなくなってしまう。特に、優れた散文詩に感銘を受け、自分の文章にもそれなりの美しさが宿っているはずだと、このブログを読み返すたびに自己嫌悪に陥ってしまう。これが、レポートや論文、あるいは小説や脚本などであればそうはならない。自分の産み出したびゅーちふるえくりちゆーるのはいからさにほれぼれする。

 

 それでも懲りずにブログを更新するわけだが、この世に完璧な文章が存在するおかげで、不完全で危うい文章の魅力があるはずだと信じたいのだろうか。テクニカルな面、the art of writingの洗練は不可欠であるのだが、感覚と理論という二項で言えば、もっと感覚的に書かなければならないと感じている。「感覚的に書くための技術」という破綻しているものを求めている。

 

 良い文章というのは、例え散文であっても読み始める前からひとつの大きな図形として美しい。漢字、ひらがな、句読点のバランスが一つ図形、大げさな言い方をしてしまうと「絵」として秩序だっている。余談として、紙の種類やインクの質、フォントまでもその要素としては存在し、あらゆる要素が全てにおいて優れている本というのは何冊所有しても気持ちの良いものだ。本屋に行く度に買ってしまう本というのが存在する。

 

 逆に言えば、自分の文章がpictureとして醜いと思わざるを得ないのは痛みを伴うのである。汚い絵の具で無理矢理に絵を書かされているかのような気分だ。International Klein Blue IKB  イブ・クラインという青に取り憑かれた芸術家が残した・・・・ほら、また文章が気持ち悪くなってきてしまった。